1600年を30秒で見る
| 場所 | 1600年前後の出来事 |
|---|---|
| 日本 | 慶長5年9月15日、関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利。 |
| 日本・豊後 | 同年春、オランダ船リーフデ号が豊後国へ漂着。ウィリアム・アダムズらが日本へ到着。 |
| イングランド | シェイクスピアが劇作家として活動中。『ハムレット』は1599〜1601年ごろの成立と考えられている。 |
| イングランド | 1600年12月31日、東インド会社に特許状が与えられる。 |
| インド | ムガル帝国はアクバル帝の治世(1556〜1605年)。 |
| 中国 | 明王朝の万暦年間。万暦帝の治世下。 |
日本では、関ヶ原の戦いが起きた
1600年、日本では徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が関ヶ原で戦いました。合戦の日は慶長5年9月15日。のちの江戸幕府成立へつながる大きな転換点として知られています。
この出来事だけを見ると、1600年は「日本国内で天下の行方が決まった年」に見えます。
ところが、同じ年を少し広い地図で見ると、かなり違う風景が見えてきます。
関ヶ原より前に、ヨーロッパから船が来ていた
1600年の重要な接点が、リーフデ号です。
国立国会図書館によると、1598年にロッテルダムを出港した5隻の船団のうち、東洋までたどり着いたのはリーフデ号だけでした。1600年、豊後国臼杵付近の海岸に漂着し、生存者の中にはオランダ人ヤン・ヨーステンや、イギリス人航海士ウィリアム・アダムズがいました。
臼杵市の資料では、アダムズらが到着したのは慶長5年4月19日とされています。つまり、関ヶ原の戦いより数か月前です。
「関ヶ原の年、日本にはすでにヨーロッパから来た船と航海士がいた」。これが1600年を横に見るときの、いちばん分かりやすい接続点です。
ウィリアム・アダムズは徳川家康に会った
リーフデ号の乗員だったウィリアム・アダムズは、その後、徳川家康に引見されます。航海術や世界情勢などの知識を評価され、のちに家康のもとで活動し、日本では「三浦按針」として知られるようになりました。
ここでは「同じ年に別々の出来事があった」だけではありません。
ヨーロッパから日本へ実際に人が移動し、その人物が、関ヶ原で勝利する徳川家康本人と接触しています。
日本史と世界史の間に、具体的な人物の線を一本引くことができます。
そのころ、シェイクスピアも活動していた
同じ1600年前後のイングランドでは、ウィリアム・シェイクスピアが劇作家・俳優として活動していました。
フォルジャー・シェイクスピア図書館は、『ハムレット』の執筆時期を1599〜1601年ごろとしています。正確な完成年を1600年と断定することはできませんが、関ヶ原の戦いと『ハムレット』は、ほぼ同じ時期の出来事です。
つまり徳川家康が関ヶ原で戦っていたころ、ロンドンではシェイクスピアの劇が上演されていた時代でした。
さらに家康とシェイクスピアは、二人とも1616年に亡くなっています。この組み合わせは、人物比較記事「徳川家康とシェイクスピアは同じ時代?」で詳しく見ていきます。
1600年の終わり、イギリス東インド会社が成立した
1600年12月31日、イングランドでは東インド会社に特許状が与えられました。英国図書館には、この1600年12月31日付の特許状に関する記録が残されています。
ここで面白いのは時間の重なりです。
春にはリーフデ号でイギリス人ウィリアム・アダムズが日本へ到着。秋には関ヶ原。年末にはイギリス東インド会社が成立しました。
もちろん、これらが一つの計画として動いていたわけではありません。しかし17世紀初頭、ヨーロッパ諸国の人・船・商業活動がアジアへ広がりつつあったことは、同じ年に並べるとよく見えます。
アダムズ自身も後年、イギリスやオランダの東インド会社との関係を持つことになります。
中国では明王朝、万暦帝の時代
1600年の中国は明王朝の時代です。メトロポリタン美術館の資料では、万暦期は1573〜1620年とされています。
日本では戦国時代から徳川政権へ向かう転換期でしたが、中国では明が続いていました。明が滅亡するのは1644年です。
1600年前後の東アジアを考えるとき、日本だけでなく、朝鮮半島や明、中国沿岸部を含む交易・外交の広がりを見る必要があります。
インドではムガル皇帝アクバルの時代
インドではムガル帝国が続いていました。
メトロポリタン美術館は、1600年代初頭のムガル帝国について、アクバル(在位1556〜1605年)のもとで権力が確立・強化されていたと説明しています。
関ヶ原で徳川家康が勝利した1600年、インドではアクバルがまだ皇帝でした。
日本史の「戦国時代末期」とインド史の「ムガル帝国」は、教科書では離れた章に置かれます。しかし時間軸では同時代です。
1600年、日本と世界には実際の接点があった?
ありました。
この年については、単に「関ヶ原とシェイクスピアが同時代だった」という偶然の並列だけではありません。
リーフデ号という船が、ヨーロッパから日本まで実際に移動しています。
そして乗員のウィリアム・アダムズは徳川家康と会い、後に家康の外交・海外知識にも関わる人物となりました。
この「直接つながっていたか?」を確認することが、「歴史の入口」で大切にする見方です。
人・物・情報はどう移動した?
リーフデ号を含む船団は1598年にロッテルダムを出発しました。国立国会図書館によれば、南アメリカ南端を回って太平洋へ入る航路をとり、嵐や他国船との衝突などを経て、日本へたどり着いたのはリーフデ号だけでした。
今なら飛行機で半日ほどの距離も、当時は海を渡るだけで年単位の旅になることがありました。
それでも、人はすでに地球規模で移動していました。
1600年の日本に届いたのは船だけではありません。アダムズたちは航海術、地理、海外事情などの知識も持ち込んでいます。
歴史をつなぐものは、戦争や条約だけではありません。人が移動すると、一緒に情報も移動するのです。
最初の問いに戻る
関ヶ原の戦いが起きた1600年、世界では何が起きていたのでしょうか。
イングランドではシェイクスピアが活動し、『ハムレット』が成立したと考えられる時期でした。同じ年の末には東インド会社が成立。インドではムガル皇帝アクバル、中国では明の万暦帝の時代です。
そして何より、日本にはすでにヨーロッパからリーフデ号が到着していました。
関ヶ原は、世界と隔絶した日本の中だけで起きた出来事ではありません。
海の向こうでは人や船が大きく動き、その流れの一部は、すでに徳川家康の目の前まで来ていたのです。
今、その歴史を訪れるなら
岐阜県関ケ原町では、関ヶ原古戦場と周辺史跡をたどることができます。
大分県臼杵市・黒島周辺には、リーフデ号とウィリアム・アダムズに関する歴史が残っています。
将来「旅の入口」側に歴史旅の記事を追加した際には、この場所を実際に歩くルートへつなげます。
関連する「同じころ。」
主な参考資料
国立国会図書館「第1部 1. 日蘭交流の始まり」 — リーフデ号の漂着と乗員。
臼杵市「三浦按針(ウィリアム・アダムス)」 — 1600年の漂着と家康との関係。
関ケ原観光ガイド — 慶長5年9月15日の関ヶ原合戦。
Folger Shakespeare Library, “Hamlet” — 『ハムレット』の推定執筆時期。
British Library Archives, East India Company charter record — 1600年12月31日の記録。
The Metropolitan Museum of Art, South Asia, 1600–1800 A.D. — アクバル治世下のムガル帝国。
The Metropolitan Museum of Art, Ming dynasty / Wanli period — 明・万暦期の年代確認。