先に答えると:鎌倉時代、とりわけ13世紀の世界ではモンゴル帝国がユーラシア規模で拡大しました。1206年のチンギス・ハン、1231年からの高麗侵攻、1258年のバグダード攻略、1260年のフビライ即位、1271年の元成立、1279年の南宋滅亡。そして1274年・1281年、その巨大な変化は元寇として日本へ届きました。
蒙古襲来絵詞に描かれた、元寇に備える日本の武士たち
『蒙古襲来絵詞』前巻・絵二。Wikimedia Commons(Public domain)

鎌倉時代を30秒で見る

日本世界
1192源頼朝が征夷大将軍に。
1206鎌倉の武家政権が続く。テムジンがチンギス・ハンとなり、モンゴル帝国成立。
1221承久の乱。モンゴル勢力が中央アジア方面へ拡大。
1231北条氏の執権政治。モンゴルの高麗侵攻が始まる。
1232御成敗式目制定。高麗王朝は江華島へ移る。
1258鎌倉幕府が続く。モンゴル軍がバグダードを攻略。
1260北条時宗の時代へ。フビライがモンゴル皇帝に。西ではアイン・ジャールートでモンゴル軍が敗れる。
1268フビライの国書が太宰府へ到着。
1271フビライが国号を「大元」とする。
1274文永の役。マルコ・ポーロがアジアへの旅の途上。
1279南宋が滅び、中国全域がモンゴル支配下へ。
1281弘安の役。モンゴル・元の広域支配が続く。
1333鎌倉幕府滅亡。

鎌倉時代は、どこから始まる?

「鎌倉幕府の成立年」には複数の区切り方があります。1180年の頼朝の鎌倉入り、1185年の守護・地頭設置、1192年の征夷大将軍就任など、何を成立条件とみるかで変わります。

鎌倉市は一般向けの歴史紹介で1192〜1333年を鎌倉幕府の時期として示しています。一方、鎌倉歴史文化交流館の展示では1180年を「頼朝の鎌倉入りと幕府の成立」とする整理もあります。

このサイトでは開始年を一つに断定するより、12世紀末から1333年までの武家政権期として世界史と比較します。

1206年、鎌倉の東西でモンゴル帝国が成立した

メトロポリタン美術館の年表によると、1206年、テムジンがチンギス・ハンとしてモンゴル諸勢力をまとめました。

そこからモンゴル勢力は中国北部、中央アジア、ロシア方面、西アジアへ急速に拡大します。

日本で北条氏を中心に武家政権が固まりつつあった同じ時期、ユーラシア大陸では新しい巨大勢力が生まれていました。

日本へ来る前に、高麗が長く侵攻を受けていた

元寇だけを見ると、「モンゴル軍が突然日本へ来た」ように感じます。

実際には、その前に朝鮮半島で長い過程がありました。

メトロポリタン美術館によると、1231〜1257年、高麗はモンゴルによる複数回の侵攻を受け、1231年には朝廷が江華島へ移りました。

日本への遠征は、モンゴル勢力が東アジアへ拡大していく一連の流れの先にあります。

1258年、バグダードがモンゴル軍に攻略された

モンゴルの動きは東アジアだけではありません。

1258年、フレグ率いるモンゴル勢力がバグダードを攻略し、バグダードを本拠としたアッバース朝カリフの支配に終止符を打ちました。

メトロポリタン美術館は、この出来事を西アジアの政治・文化史に大きな影響を与えた転換として紹介しています。

鎌倉幕府が日本で続いていた同じ時代に、モンゴル軍は遠くイラクまで到達していたのです。

1260年、西では止められ、東ではフビライが即位

1260年、西アジアではマムルーク朝がアイン・ジャールートの戦いでモンゴル軍を破りました。

同じ1260年、東ではフビライがモンゴル帝国第5代皇帝となります。

そして1271年、フビライは中国風の国号「大元」を採用。1279年までに南宋も滅び、中国全域がモンゴル支配下に入りました。

同じモンゴル世界を、西アジアと東アジアの両端から見ることができます。

1268年、フビライの国書が日本へ届く

軍事侵攻より前に、情報と使者が日本へ到達しています。

国立公文書館によると、1266年にフビライ政権が日本との通好を求める国書を作成し、高麗を経由して1268年に太宰府へ届けました。

つまり、フビライ政権 → 高麗 → 太宰府 → 日本側という情報の経路が、1274年の襲来より前に存在していました。

1274年、その巨大な世界が日本へ直接到達した

1274年、元・高麗などの軍が対馬、壱岐を経て北部九州へ来襲しました。文永の役です。

国立公文書館は、1274年と1281年の二度にわたる襲来、その間の防衛強化、石塁の構築などを史料とともに紹介しています。

文化庁の文化遺産データベースによると、文永の役後に鎌倉幕府が築かせた元寇防塁は、博多湾岸の香椎から今津まで東西約20kmに及びました。

1281年の弘安の役では、この防塁も防衛に使われています。

日本側には『蒙古襲来絵詞』が残った

この時代には、戦いの様子を視覚的に伝える史料があります。

皇居三の丸尚蔵館の国宝『蒙古襲来絵詞』です。同館によると、1274年と1281年の元寇に出陣した肥後国御家人・竹崎季長を中心に描いた絵巻です。

世界規模のモンゴル拡大を、日本側の一人の武士の視点まで縮めて見ることができます。

元寇のあとも、交流は終わらなかった

「元が攻めてきた」ことだけを見ると、日本と大陸が戦争後に断絶したように感じるかもしれません。

しかし鎌倉市は、和賀江島を通じて宋や元との交易が行われ、禅宗、建築、彫刻などの中国文化がもたらされたことを紹介しています。

宮内庁の資料でも、元寇後の1299年に元の禅僧・一山一寧が来日し、鎌倉の建長寺や円覚寺などで活動したこと、1278年にはフビライが日本との貿易を許可したことが紹介されています。

戦争と交流は、単純な二者択一ではありませんでした。

モンゴル帝国は、物や知識の移動も加速させた

モンゴルの拡大は大規模な破壊と戦争を伴いました。一方、広域支配の下でユーラシアの各地域を結ぶ人・物・知識の移動も活発化します。

メトロポリタン美術館は、いわゆるPax Mongolicaの環境で東アジアと西アジアの文化的影響が広く行き交ったことを示しています。

フビライのもとではペルシアやアラブ圏の天文学者も中国へ招かれました。

この広域ネットワークの中を旅した人物の一人がマルコ・ポーロです。

最初の問いに戻る

鎌倉時代、世界では何が起きていたのでしょうか。

最大の軸の一つは、モンゴル帝国の成立と拡大です。

モンゴル勢力は高麗、中国、中央アジア、西アジア、ロシア方面へ広がり、1258年にはバグダードを攻略。東ではフビライが元を建て、1274年と1281年には日本へ軍を送りました。

元寇は「日本史の中の外国襲来」だけではなく、13世紀ユーラシアを大きく組み替えたモンゴル拡大の東端で起きた出来事です。

その一方で、戦争の前後にも国書、僧侶、商人、陶磁器、思想が海を越えていました。

関連する「同じころ。」

福岡市に残る元寇防塁と推定される石塁遺構
福岡市に残る元寇防塁と推定される石塁遺構。写真:Muyo / Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

今、その歴史を訪れるなら

鎌倉では鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺、和賀江島などを通して武家政権と大陸交流をたどれます。

福岡・博多湾沿岸では元寇防塁、さらに対馬・壱岐ではモンゴル襲来の歴史を現地で見ることができます。

主な参考資料

国立公文書館「歴史と物語 年表」 — 1192年、1221年、1232年、1274年、1281年、1333年など。

The Metropolitan Museum of Art, “China, 1000–1400 A.D.” — 1206年、1260年、1271年、1279年のモンゴル・元。

The Metropolitan Museum of Art, “Korea, 1000–1400 A.D.” — 1231〜1257年のモンゴルによる高麗侵攻。

The Metropolitan Museum of Art, “Iraq, 1000–1400 A.D.” — 1258年のバグダード攻略。

The Metropolitan Museum of Art, “The Art of the Mamluk Period” — 1260年アイン・ジャールート。

国立公文書館「13世紀の日本モンゴル関係」 — 1268年の国書、二度の元寇。

皇居三の丸尚蔵館「蒙古襲来絵詞」 — 竹崎季長と元寇。

文化庁 文化遺産データベース「元寇防塁」 — 博多湾岸約20kmの石築地。

鎌倉市「鎌倉市の歴史」 — 宋・元との交易と中国文化。

宮内庁「モンゴルご訪問に際し」 — 元寇後の一山一寧、日元交流。