先に答えると:マルコ・ポーロがアジアに滞在したころ、日本は鎌倉時代です。彼は1271年に東方へ出発し、1275年ごろフビライのもとへ到達しました。ちょうど1274年の文永の役、1281年の弘安の役と重なります。ただしマルコ・ポーロ本人は日本を訪れておらず、「ジパング」の記述は伝聞によるものでした。
16世紀ごろに描かれたマルコ・ポーロの後世の肖像画
マルコ・ポーロの後世の肖像(16世紀ごろ)。Wikimedia Commons(Public domain)

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日本・モンゴル世界マルコ・ポーロ
1254鎌倉時代マルコ・ポーロ誕生。
1260フビライがモンゴル帝国第5代皇帝に。少年期。
1268フビライ政権の国書が高麗を経て太宰府へ到着。14歳前後。
1271フビライが国号を「大元」とする。父・叔父と東方へ出発。
1274文永の役。アジアへの旅の途中。
1275ごろ北条時宗の時代。フビライの宮廷へ到達。
1281弘安の役。モンゴル支配下のアジアに滞在中。
1295鎌倉幕府が続く。ヴェネツィアへ帰還。

マルコ・ポーロのころ、日本は鎌倉時代

マルコ・ポーロは1254年ごろ生まれ、1271年に父ニコロ、叔父マフェオとともに東方へ向かいました。

Encyclopaedia Iranicaによれば、1275年ごろフビライの夏の宮廷へ到達し、その後長くアジアに滞在しています。

そのころ日本では鎌倉幕府が続き、執権北条時宗の時代です。

そして1274年と1281年、日本は元・高麗などの連合軍による二度の襲来を受けました。

フビライは、日本へ来る前に手紙を送っていた

元寇は、いきなり大軍が海を渡って始まったわけではありません。

国立公文書館によると、1266年にフビライ政権から日本への国書が作られ、高麗を経由して1268年に太宰府へ届きました。

国書は通好を求める内容で、鎌倉幕府はこれに応じませんでした。その後も使者が送られ、1274年の文永の役へ至ります。

つまり13世紀の日本は、戦争の前からすでに書簡と使者のネットワークでモンゴル世界と接続していました。

1274年と1281年、マルコ・ポーロもアジアにいた

一度目の元寇である文永の役は1274年、二度目の弘安の役は1281年です。

マルコ・ポーロが東方へ出発したのは1271年。1275年ごろにはフビライのもとへ到達したとされます。

したがって、二度の日本遠征は、マルコ・ポーロがアジアを旅し、モンゴル支配下の世界に滞在していた時期と重なっています。

北条時宗、フビライ、マルコ・ポーロは、別々の歴史の登場人物ではなく、同じ13世紀後半を生きた人々です。

マルコ・ポーロ本人は日本へ来ていない

ここは重要です。

マルコ・ポーロは日本へ実際に渡航した人物ではありません。

彼の旅行記には本人が訪れた地域だけでなく、訪れていない地域について得た情報も含まれています。日本についての「ジパング」も、そのような伝聞情報の一つです。

一橋大学の研究資料でも、ポーロ自身は日本を訪れておらず、それでも「Zipangu / Cipangu」という名称を地中海世界へ広めた人物として知られることが説明されています。

だから「マルコ・ポーロが見た日本」と書くのは適切ではありません。「マルコ・ポーロが聞いた日本」と考える方が実態に近いでしょう。

それでも、なぜ日本の情報を持っていた?

13世紀後半の東アジアでは、フビライ政権、高麗、中国沿岸部、日本の間に使者・船・商人・情報が動いていました。

マルコ・ポーロの日本情報も、この広い情報圏の中で得られた伝聞として考える必要があります。

日本を直接見なくても、日本についての話は中国大陸側まで届いていました。

そして、その情報をさらに西へ持ち帰ったことで、「ジパング」という像がヨーロッパへ伝わっていきます。

蒙古襲来絵詞に描かれた元寇当時の日本の武士たち
『蒙古襲来絵詞』前巻・絵二。Wikimedia Commons(Public domain)

日本側には『蒙古襲来絵詞』が残っている

同じ元寇について、日本側には非常に重要な視覚史料があります。

皇居三の丸尚蔵館所蔵の国宝『蒙古襲来絵詞』です。

同館によると、この絵巻は1274年と1281年の二度の元寇に出陣した肥後国御家人・竹崎季長を中心に描いています。

つまり一方では、ヨーロッパへ伝わったマルコ・ポーロの「ジパング」と元の日本遠征についての記述。

もう一方では、実際に戦った日本の武士側から残された『蒙古襲来絵詞』。

同じ出来事を「外国側に伝わった話」と「日本側の史料」で比較できる題材です。

「ジパング」は、同じモンゴル世界からヨーロッパへ出た情報だった

元寇とマルコ・ポーロを並べると、意外な共通点が見えてきます。

どちらもフビライを中心とする13世紀のモンゴル世界を背景にしています。

フビライ政権は日本へ国書と使者を送り、やがて軍を送りました。

マルコ・ポーロはそのフビライの支配するアジアを旅し、日本についての情報を得て、のちにヨーロッパへ伝えました。

つまり、日本への軍事的な動きと、日本について西へ流れていく情報は、完全に別の世界で起きていたわけではありません。

最初の問いに戻る

マルコ・ポーロが「ジパング」を語ったころ、日本は何時代だったのでしょうか。

答えは、鎌倉時代です。

北条時宗の時代で、フビライ政権から国書が届き、1274年と1281年には元寇が起きました。

マルコ・ポーロ本人は日本を訪れていません。しかし彼がいたモンゴル世界には日本に関する情報が流れ、その伝聞がヨーロッパへ運ばれました。

「ジパング」は、日本とヨーロッパが直接出会うより前に、情報だけが先に海と大陸を越えた例と見ることができます。

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今、その歴史を訪れるなら

鎌倉では北条氏や鎌倉幕府の時代をたどれます。

福岡・博多湾沿岸には元寇防塁など、モンゴル襲来に関わる史跡があります。対馬や壱岐にも元寇の歴史が残ります。

さらに『蒙古襲来絵詞』は、現在、皇居三の丸尚蔵館が所蔵しています。

主な参考資料

Encyclopaedia Iranica, “POLO, MARCO” — 1271年の出発、1275年ごろのフビライ宮廷到着、帰路など。

一橋大学機関リポジトリ掲載研究「Perception of the Mediterranean World in China and …」 — マルコ・ポーロが日本を訪れていないこととZipangu情報の伝播。

国立公文書館「13世紀の日本モンゴル関係」 — 1268年の国書、1274年・1281年の元寇。

皇居三の丸尚蔵館「蒙古襲来絵詞」 — 竹崎季長と二度の元寇を描く国宝絵巻。